書斎



産業翻訳とはどのような作業か?

(「通訳・翻訳ジャーナル」 ムック『通訳者・翻訳者になる本 2003』記事)


以下は、2002 年 1 月発行の 「通訳・翻訳ジャーナル」 ムック『通訳者・翻訳者になる本 2003』に掲載された特集 「翻訳入門 - 産業翻訳編」 に寄稿したもので、イカロス出版社のご好意により、ここに再録いたしました。


宮代 紘一: 1943 年生まれ。東京外国語大学インドネシア語科卒。大学卒業後、外務省に入省。アイルランド、インドネシア赴任を含めて 8 年間勤務。退官後、鋼材専門商社のインドネシア支店長として 7 年間、インドネシアの現地法人の副社長として 2 年間、日本の商社のロスアンゼルス支店の支店長として 3 年間勤務し、日本に帰国。帰国後、翻訳会社を知人と設立し、社長を 2 年間務めるが、売却して健康食品会社のアメリカ法人の総支配人として 2 年あまり勤務し、帰国。その後、フリーの翻訳者として活躍。昨年より、大手翻訳会社、潟Tン・フレアのローカライズ部門の品質管理および教育担当部長に就任。プロ翻訳者教育プログラム「Pre-OJT」および「OJT」コースの担当講師も務める。


  翻訳は原文を理解したあと
     原文を忘れて自分のことばで書き起こす作業

翻訳は原文の内容を理解して行うもの

翻訳という作業の中核となる作業は何かというと、原文を理解することであり、翻訳に最も必要な能力は何かというと理解力です。世の中ですでに産業翻訳者として翻訳に携わっていらっしゃる方の 9 割がいわゆる「製品」として通用するレベルの翻訳を行えない C クラス以下の翻訳者ですが、それはその方たちが「原文を完全に理解する努力をしてから翻訳文を書く」という単純な原則に従っていない、つまり「理解」せずに翻訳をしているということなのです。


品質を上げるための翻訳の作業手順

では、まだ職業翻訳者になっていない方々、あるいはなって日が浅い方々にローカライズ分野を例に技術翻訳の本来あるべき作業工程を説明しましょう。ローカライズとは、主にコンピュータのソフトウェアのマニュアルを英語版から日本語版に製造業的な工程管理により変換する作業のことで、技術翻訳のなかではもっとも巨大な需要がある分野です。

【1st Step】 翻訳にかかる前に知識の蓄積
    専門書を読んだり、当該製品のメーカーのWebを見たりして理解を深める

翻訳者にはインプットとして翻訳対象英文と、用語集やスタイルガイドなどの参考資料が支給されます。翻訳者は、まず、与えられた翻訳対象文書が、何(内容)をだれに対して説明したものかを考えます。そして、内容を十分に理解するための専門知識が不足していれば、専門書を読んだり、それが大手ソフトウェア会社の製品であれば、その会社のWebサイトで、その製品に関する説明を読んだりして、必要な知識を収集します。内容を理解して訳そうとする翻訳者は、このような準備作業を行いますし、翻訳を記号の置き換えと考えて、内容を理解せずに英単語を日本語の単語に置き換えていく作業者は、このような面倒な作業を工程から省きます。しかし、このような準備作業を行うかどうかで、アウトプットとして生産される翻訳の品質のレベルが決まります。

【2nd Step】 翻訳環境を整える
    メインマシンに翻訳作業の態勢を、セカンダリマシンに理解促進の環境を

次の作業は、翻訳環境を作ることです。トラドス (*1) を使用するのであれば、新訳の場合は TM (*2) を作成し、用語集が Excel シートで与えられていれば MT (*3) で利用できる形に変換します。また、Web 上でできるだけ多くの関連資料を探して、それをダウンロードします。通常、ローカライズ翻訳では、このように多くのアプリケーションを使用し、多くの資料を参照します。したがって、プライマリマシン(デスクトップ)上に Word、Excel、Trados Workbench、MultiTerm などを開き、セカンダリマシン(ラップトップ)上に、レイアウトが見られる形の原文、参考資料、CD-ROM 辞書類を開き、さらに Web 検索ができる態勢を準備します。つまり、プライマリマシン上には翻訳作業の態勢を作り、セカンダリマシン上には、理解を促進するための態勢を作っているわけです。1 台のマシンで作業している方がいるとすれば、その方は「理解」する努力を放棄しているとしか考えられません。

【3rd Step】 翻訳作業
    わからないことは徹底的に調査しつつ、把握した概念を自分の日本語で記述

翻訳作業開始後は、パラグラフ単位で英文を読み、そこで説明されている概念を把握したら(当然、全体の説明の流れを念頭において)、原文を忘れて、把握した概念を自分の日本語で記述します。原文が理解できないパラがあれば、文法的に疑問があれば英文法書を開き、理解できない単語があれば辞書を引き、理解できない内容がある場合は、それがコンピュータに関する基本的な知識であれば市販の解説書を読んだり、コンピュータ辞典を調べたりします。相当専門的な内容であれば、関連の Web サイトで情報を収集し、それでも解決できない場合はジョブサプライヤ(翻訳会社、ローカライザ、直接のクライアントなど)に質問をします。大事なことは、あらゆる手段を講じて完全に理解してから翻訳しようとすることです。したがって、すぐに理解できないパラにぶつかったときに翻訳者が取る道は次の3つのいずれかです。

  1. 徹底的に調査して、理解してから訳す。
  2. 調査後、一応自分なりの理解で解釈し、翻訳したが、確信が持てないので翻訳者注を付ける。
  3. どうしても理解できず、その理由が技術的な解釈である場合は、ジョブサプライヤに質問する(ローカライズ翻訳の多くは、最先端のソフトに関するもので、同じクライアントの専門家でも担当部署以外では理解できないというものもあります。そのような内容については、翻訳者から質問があってクライアントは安心します)。

ここで多くの翻訳者は無意識に単語の置き換え翻訳に走って、読んで意味不明の日本文を書いてしまいます。ここで製品を作れるプロの翻訳者かどうかが分かれます。


例として、次のようなパラで始まる英文を翻訳するとしましょう。

【TRIAL TEXT 1】

There are three active parts in using XXX Process Manager: the application computer (Client), the server containing the SQL database information, and a relational database management system to communicate with databases outside this specific system.

This product uses client/server architecture to separate the workload into tasks that run on server computers and those that run on client computers. The client is responsible for business logic and presenting data to the user. The server manages databases and allocates the available server resources, such as memory, network bandwidth and disk operations among multiple requests.

専門用語が多いように感じますが、実は、この業界ではごく普通の言い回しで、だれが訳しても次のような訳文になるはずです。このくらいの文は、読むと同時に内容を理解し、対応するに本文が自動的に頭に浮かぶくらいでなければなりません。

【訳例】

XXX Process Manager を使用するには、アプリケーション端末 (クライアント)、SQL データベースのサーバー、およびこのシステムの外部のデータベースと通信を行うリレーショナルデータベース管理システムの、3つのシステムが必要です。

この製品では、クライアント/サーバーアーキテクチャを使用して、サーバー側で実行するタスクとクライアント側で実行するタスクを分け、負荷を分散させています。クライアントは、ビジネスロジックの処理とデータの表示を行います。サーバーは、データベースを管理し、メモリ、ネットワーク帯域幅、ディスクオペレーションなどの使用可能なサーバーのリソースを複数の要求に割り当てます。


専門用語、一般用語を、その業界で通常使われている日本語に翻訳し、その分野の専門家が読んで違和感のない日本語を作って、初めて製品と呼べる翻訳となります。そのためには、常に自分が専門分野とする業界の言葉遣いにアンテナを張っている必要があります。


【TRIAL TEXT 2】

Since a stored procedure is a database object, you can call it.

 これは単純な文ですが、この分野に慣れていないと、call の訳に悩むかもしれません。

【訳例】

ストアドプロシージャはデータベースオブジェクトであるため、呼び出すことができます。


【TRIAL TEXT 3】

This is the industry standard and it can be formatted to appear not only as part of any software product but also on the company's intranet or on the internet for end users.

 format のような一見専門用語的な用語でも、一般用語とみなして訳す(省く)こともあるし、appear のような曖昧な単語をしっかり訳すこともあります。すべて、コンテキストによって決まり、背景知識がものを言います。

【訳例】

このヘルプ形式はすでに業界標準となっており、ソフトウェア製品に付随したヘルプファイルを作成することも、企業のイントラネットやインターネット上で単独でユーザーに提供するためのヘルプ ファイルを作成することも可能です。


【TRIAL TEXT 4】

Click Close to exit the window.

to 不定詞は、内容を理解しないと目的に訳すか、結果に訳すか決められません。このような簡単な操作手順を示す文でも、次のように訳し分ける必要があります。

【訳例】

a. このウィンドウを閉じるには、[閉じる] をクリックします。(目的)
b. [閉じる] をクリックすると、ウィンドウが閉じます。(結果)


【用語解説】

*1 トラドス/バージョンアップを度々行う製品のマニュアルや手順操作など繰り返し部分の多いマニュアルを翻訳するための翻訳支援ツールの一つで、「トラドス」はメーカー名。前のバージョンのマニュアルの原文と訳文をデータベース化し、新しいバージョンのマニュアルの翻訳を進める際、同じ文章や類似の文章が出てくると前版の訳文を出してくるという機能をもつ。

*2 TM/Translation Memory。トラドスなどデーターベース型翻訳支援ツールによって生成される原文と訳文の対訳データベースのことを言う。原則、原文 1 文に対し、訳文 1 文という対のデータベースとして作成される。高速検索機能が付随する。

*3 MT/MultiTerm。翻訳支援ツールの Trados にリンクされた用語管理ツール。翻訳対象セグメントに用語集に指定された単語があれば、わざわざ検索しなくてもその指定訳語が専用の窓に表示されるので、翻訳時に必ず参照できる。





トップ アイコン
トップページ
翻訳論目次
翻訳論目次
メール アイコン
メール

ライン